新ぶたパンダの冒険Z : M-Y 『嫦娥奔月

                       

嫦娥奔月  「奔月」(切り絵)1991年 


   プロローグ

   どこか暗く深い淵へゆっくりと沈んで行くように、私は意識を失いかけて
   いたが、少しもそれにあらがおうとは思わなかった。
   むしろ、強い意思の力によって翻弄されつづけながら、意識と無意識と
   の茫漠とした間で、苦痛とも分別とも無縁な、永遠の非存在へと落ちて
   行くことを願っていたのだった。
   手足は鉛を纏ったように重く、そして冷たかった。
   思わず、私は、頭上に青く不気味に光る、忌々しい上弦の星に向かい、
   呪(しゅ)をつぶやいていたのだった。
   「お前の力で私を一瞬にして押しつぶし、無窮の眠りへといざなうがいい」

   薄れ行く意識の中で、彼女は自分の身に起こったことを走馬灯のように
   めまぐるしく思い出していた。
   そして、いまさらながら、いつも誠実だった夫のことを思い、悔恨の涙を
   その醜い両の頬に流すのだった。


   T 秘密基地
 
   「今日、君たちに集まってもらったのは他でもない。非常に難しい問題が
   生じたためなのだ」
   窓いっぱいに広がるパノラマ。真っ青な空に浮かぶ真っ白な積乱雲。
   緑の椰子の葉と群青の海に、すっかり見入っていたぶたパンダたちに
   声をかけたのは、目が大きく、マリオネットの様にぎこちなく動く、あの
   国際救助隊の隊長です。
   ここは、南の絶海の孤島。国際救助隊の秘密基地です。

   「昨夜遅く、静止軌道上に浮かぶ宇宙ステーションから報告があった。
   微かにだが、月面からの救助信号をキャッチしたのだ。
   そこで、君たちに出動してもらいたいと考えたのだが、実は、この救助
   信号は、誰が発したものなのかがわからない。
   あらゆる手段を使って情報の分析を試みたのだが、かすかに生体反応
   らしきものは見られるものの、残念ながら、正体を突き止めることはでき
   なかった。
   従って、このミッションにはどのような危険が伴うかのか、また、発信者
   を救助することが、どのような結果を招くのか・・・
   私たちにとって、良いことなのか悪いことなのかも不明だ」といいながら、
   隊長は、窓の外に目を移しました。

   そのとき、テーマソングとともにプールの水面が水平に移動し、中から
   ロケットが現れ、轟音と共に飛び立って行きました。救助のために緊急
   出動したのです。
   「あれはすばらしい技術の結晶だが、時空を超えて救助活動が出来る
   のは、君たちの他にはないのだ・・・」

   「さて、話をもどそう。時代は、今から5千年ほど前。当然のことだが、
   その頃には、まだ人類は誰一人として月面には足跡を記してはして
   いない。
   繰り返すが、この救助がわれわれにとって、どのような結果をもたらす
   のかはまったく分かっていない。すべては、君たちのその場での判断
   にかかっている」といいながら、スクリーンに投映された月面の画像を
   示しました。

   「月面の北半球に雨の海と言う大きな平地があり、この雨の海の北に、
   半円形の綺麗な入江が見られる。大きさは約240km。虹の入り江だ。
   クレーターから噴出した溶岩によってクレーターの南側の縁が壊され、
   雨の海とつながったものだと考えられている。
   軌道上から見る限り、ここに宇宙船などの不審なものは、なにも見あ
   たらない」
   ぶたパンダは、なんだかカウアイ島にあるハナレイ湾に似ているなと
   思いました。ハナレイ湾は北向き、虹の入り江は南に向いているのが、
   ちょっと違うけれど・・・

   「南にある、放射状に光る線の中心にあるクレーターは何ですか?」
   と、黒くんが聞きました。
   「あれは、ティコと呼ばれるクレーターだ。直径は、約86Km。
   環状山の周囲との高低差は2,400m。底の深さは、3,600mもあり、
   放射状に光るのはレイ(光条)と呼ばれ、長いものは、800Kmもある。
   2001年にモノリスが発見されたのは、このティコクレーターだ」


   U 虹の入り江

   みんなが月面に立ったとき、虹の入り江に向いた宮に、今にも死にそう
   な、大きく醜い一匹の蟇蛙の姿がありました。

   「私の望みはひとつ。この醜く卑しい、私の命を絶つことです」
   「それは、できません」と、みんなは言いました。
   「私たちに出来ることは、幸せな結末を迎える手伝いをすることだけなん
   です」と、ぶたパンダ。
   「天を裏切り、夫を裏切ってその罰を受けた私には、幸せな結末などは、
   ありはしないのです。すべてを忘れ去り、永遠に無となることだけが、私
   にとって、唯一の救いなのです」
   「でも、あなたを待っている人がいます」
   「そうです。それでは、あなたを待っている人が悲しみます」
   「私を待つ人など・・・」と、どこか遠くを見る目で話し始めました。

   「私の名は、嫦娥(こうが)。天上に生まれ、夫である羿(げい)とともに、
   天上で幸せに暮らしておりました。
   あるとき十の太陽が同時に空に昇り、人々が難儀をしているのを知った
   天帝が、帝堯の求めに応じ、弓の名手で謝術の創始者でもある夫を、
   私と共に地上に遣わしたのです。
   夫は、瞬く間に九つの太陽を打ち落とし、地上の人々とすべての生き物
   とを救いました。夫は見事にその役目を果たしたのですが、その太陽は
   天帝の息子たちでありましたから、天帝は、二人が天上に帰ることを、
   お許しにならなかったばかりか、神籍さえも奪われてしまったのです。
   人として地上で暮らすことになった私たちですが、それでも二人は幸せ
   でした。
   夫は、人々を苦しめる怪物や猛獣を退治したり、また、弟子たちに謝術
   を教えたりして、人々から敬われてもおりました。

   ところがあるとき、夫が崑崙山の西に住む西王母のもとを訪ね、不死樹
   の三千実(みちみ)の桃から作った仙薬を貰ってきたのです。
   この仙薬は、半分飲めば不死になり、すべて飲み干せば天上へと昇れ
   るというものです。
   しかし、その仙薬は一人分しかありませんでした。
   三千実の桃は、その名の通り三千年に一度実を結ぶ桃です。
   天上では、三千年などはあっと言う間ですが、人となった私にとっては、
   気の遠くなる載月(としつき)です。

   夫は、どちらか一方だけが天上に帰って離れ離れになることをきらい、
   その仙薬を隠しておいたのです。
   私も夫とは離れたくなどありませんでした。でも、仙薬を手に入れたこと
   を知った私は、かつての天上での楽しい暮らしを思い出さずにはいられ
   ませんでした。

   そして八月十五日の中秋の夜。美しい月に酔ったのか、つい誘惑に負け、
   こっそりとその仙薬を飲んでしまったのです。
   すると、不意に体が軽くなって、ふわりと空へ昇りはじめました。
   我に返り、夫と離れ離れにならなければならないことに気がついたもの
   の、もう取り返しがつきません。
   夫と別れて、ひとり天上へ帰ることはできません。月にとどまり、こうして、
   この入り江の宮に住むようになったのです。
   それから毎日、地球を眺めては夫を思い、後悔の涙を流していたので
   すが、やがていつの間にか、私の姿は、醜い蟇蛙の姿となってしまい
   ました。
   夫は地上に寿命を持つ人間として取り残され、私は、月で蟇蛙となって
   しまったいま、二度と夫とまみえることなどは、叶わないことなのです」

   「あなたの夫、羿は、すでに天上に帰っておられます。弓矢の技を独り占
   めにしたいと悪心を起こした弟子の逢蒙(ほうもう)に欺かれ、命を奪われ
   たのです」
   「でも、天帝は、人に落とされても真っ直ぐに生きた羿を哀れに思って、
   再び天上へと召し上げたの」
   「天上にもどった羿は、あなたの姿を探し回ったのですが、どこにも姿が
   見えないので、たいそう悲しんでいます」
   それを聞いた嫦娥は、絶望のあまり泣き崩れていまいました。

   「あなたは、これから地上に戻ることになります。そして、そこで人間とし
   て生きていただきます」
   「いくつかの試練がありますが、それでも、あなたの心が変わらなけれ
   ば、三年三ヶ月後の中秋の満月の夜、あなたのもとへ迎えが参ります」
   「そのとき、ぼくたちは、ここに虹の門を用意しておきます」
   「あなたはその虹の門を通り、天上で待つ夫のもとへ帰ることができる
   のです」
   虹は、天空への架け橋であると同時に、異相世界へのゲートでもある
   のです。


   V なよ竹の (モノローグ) 

   気がつくと、辺りは暗くはありませんでした。どうやら、私の体内から光が
   発している様子です。
   思わず、私は、天上へ帰れたのかと思ったのですが、妖精たちが、地上
   で人間の生活をさせると言っていたことを思い出しました。
   それにしても、ここはどこなのでしょう。狭くて、立つどころか体を動かす
   ことすら出来ません。

   あれ、衝撃とともに視界が開け、目の前に一人の翁の姿がありました。
   私を見て大変に驚いていたようですが、それ以上に、私も驚きました。
   それは、鉈を持つ翁が見たことも無いような大男だったからです。
   でも少し経つと、私もその大きさになりましたので、その時は、私の方が、
   とても小さかった。ということのようでございます。

   翁は名を讃岐造麿といい、竹を取り、それで様々なものを作っては、妻の
   嫗と二人で暮らしを立てている者でございました。
   二人には子が無く、私を娘として育ててくれることになりました。
   私は少しだけ仙術を使い、竹の中に金を生じさせましたので、竹取の翁の
   夫婦は、見る間に豊かになっていきました。
   三月ほど経ったとき、年頃になった私に名をつけることになり、それからの
   私は、「なよ竹のかぐや姫」と呼ばれることになりました。

   世の男たちは、貴な人も賎の人も、私を娶りたいと願い、翁の家を訪ねる
   公達(きんだち)は後を絶たなかったのでございますが、やがて、五人の
   公達が残りました。そして、彼らはあきらめることなく、夜となく昼とはなく
   翁の家へ通って参ったのでございます。
   五人の公達の名は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言
   大伴御行、中納言石上麻呂と申されるのだそうでございます。

   諦めそうにもない五人を見て、翁は私に「女は男と結婚をするものだか
   ら、お前もあの中から選んだらどうか」と言いますので、「私の言うもの
   を持ってくることができた人と結婚したいと思います」と、五人の公達に、
   私の言葉を伝えていただきました。
   それは、石作皇子には仏の御石の鉢、車持皇子には蓬莱の玉の枝を。
   右大臣阿倍御主人には火鼠の裘、大納言大伴御行には龍の首の珠を。
   中納言石上麻呂には燕の子安貝を探し持って来させるというものです。
   どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかり。手に入れるのは、到底困難な
   ものばかりでしたので、もちろん、誰一人として成功した者は、ございま
   せんでした。

   やがて、私の噂が帝に伝わり、帝が私に会いたがったそうなのですが、
   私は拒みつづけ、ついには帝も諦めたそうでございます。ただ、歌だけ
   は交わすことにいたしました。
   三年経った8月(旧暦)。夜になると、私は泣いてばかりおりましました。
   夫の元へ帰るという気持ちに、いささかの迷いもありはしませんでしたが、
   これまで慈しんでくれた竹取の翁の夫婦と分かれることは、やはり、悲し
   かったからでございます。
   満月が近づくにつれ、つい泣き方も激しくなり、翁に問いつめられました。
   そこで私は、別世界のものであり、15日の満月の夜に私の世界へ帰らな
   ければならないことを話ましたところ、翁も嫗も大いに嘆き悲しみました。
   そして、それを知った帝はそれを阻もうと、勇ましい軍勢を送ったのだそう
   でございます。

   やがて、子の刻(午前2時)頃。天から大勢の人が降りてきて、私を虹の
   入り江にある宮へと連れて帰ってくれたのでございます。
   別れのとき、迎えの一行の携えてきた不死の仙薬を、優しい歌で私の
   傷心を癒してくれた帝に送ったのですが、帝は、なぜかそれを、駿河の
   日本で一番高い山で焼くようにと命じたのだそうでございます。


   エピローグ
 
   「片時も忘れたことの無かった夫のもとへ、再び天上人として帰るいま、
   私には、すべてが満月の夜の一夜(ひとよ)の夢であったような、そんな
   思いがいたしております」と、
   不意にこみあげる熱い涙を、嫦娥は、その美しい頬にこぼすのでした。

   こうして、ぶたパンダたちとの約束を守り通した嫦娥は、虹の入り江の
   虹の門を通り、夫の待つ天上へと帰って行きました。
   天上で再会した二人は、いつまでもむつまじく、幸せにくらしました。 

   みんなのチームワークで、時空レンジャーの今度のミッションも無事に
   成功しました。
   めでたしめでたし。


   え、みんなが幸せではない?残された翁と嫗、それに帝がかわいそう。
   はい、大丈夫です。だって、翁も嫗も天上人だったのですから。
   三ヶ月で一人前に成長する娘を見れば、普通の人だったら絶対に怪しん
   で、養育を放棄されてしまいますからね。
   帝だって天上人です。最大の試練を与えるのが使命です。
   天上人だからこそ、不死の仙薬を惜しげもなく燃し、「不死の山」などと、
   洒落ることが出来たのです。
   もちろん、嫦娥はそのことを知りません。

   えっ、ほかのキャストですか?それはご想像にお任せいたします。
   そういえば、帝の軍勢の中にあの5人の公達役の顔もちらほらと、見えて
   いたような・・・
   では、あらためまして、めでたし、めでたし。


   ふろく

   今回は、みんな遊ばなかったのかって・・・
   そんな訳はありません。お話の流れ上、本文では書きにくかっただけなん
   です。では、月面での遊びを以下に再現します。

   「第一段階は終了。さあ、僕たちは、しばらくここで遊んじゃおう」
   「さんせ〜い」
   「なにをしてあそぼうか」
   「じゃ〜ん、缶けり。月の上で一度やってみたかったんだ」
   「えっ、空き缶を持ってきていたの」
   「もっちろ〜ん。秘密基地の裏の空き地で見つけたんだ」
   「きっと、あの国際救助隊の兄弟たちが遊んだんだよ」
   「缶は絶対に忘れないでね、必ず持ち帰るのよ。忘れると、あとで大変な
   ことになっちゃうんだからね」
   「は〜い」
   「じゃあ、最初は缶を持ってきた、黒くんが鬼だね」

   月の上は、重力が地球の約1/8ほどですから、あっちへぴょ〜ん、
   こっちへぴょ〜んと、飛んだり跳ねたり、おおはしゃぎです。
   でも鬼だって、あっちへぴょ〜んができるんですから・・・。
   ほら、ぶたパンダも白ちゃんもつかまって、残るは巨大くんだけです。

   あ、走ってきた巨大くんは、缶を蹴りましたが止まりきれず曲がりきれず、
   みんなに大激突です。
   するとみんなは、ぽ〜んと遠くまではじき飛ばされてしまいました。
   でも大丈夫。重力が小さいので、頭から落っこちてもけがはありません。
   重力の小さい月の上では、体重は軽くなりますが、残念ながら、慣性は
   そうはゆきません。
   地上でも無重力の宇宙でも同じ大きさで働くのですから、空気もなく重力
   の小さい月では、抵抗の少ない分だけ、その勢いは続くのです。
   巨大くん、しっかりと覚えておいて、さあ、もう一回!

   「やれやれ、なにも心配することはなかったようだ」と、隊長の心の声。

  
※ 慣性とは、他から力の作用をうけない限り、物体がいつまでもその運動
    または静止の状態をかえない性質のこと。 


 
 あとがき

   拙オリジナルキャラクタ、「やたりろ」の紹介の中で、誕生秘話に後日談を
   予告しながら遅くなりました。やっと、物語として紹介させていただきます。
   
   もともと姮娥(こうが)と書きましたが、漢の文帝の名の「恆」の字を避けて、
   嫦娥(こうが)と記すようになったのだそうです。
   この手の改名は、中国ではよくある話なんです。


                                         2006.08.11  
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