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知ったか その7  ● リリー・マルレーン−U ●

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知ったか天国,アンデルセン

ララ・アンデルセン


北海の島ランゲウォング
(Langeoog)に眠る









Lale Andersen 
(1913.3.23〜1972.8.29)

 1913年北海に面したブレーマーハーフェンに生まれる。船乗りの父はいつも家にいなかった。
17歳で売れない画家と結婚し、19歳で3児の母になった。船乗員相手のキャバレーで歌いながら、結婚当時から俳優学校に通っていました。しかし、ベルリンで芽の出なかったララは、20歳の春に子供を夫の許に残したまま、スイスの舞台の呼びかけに応じてドイツを後にします。
 1933〜37年まではスイスでわずかな成功を得、スイス国籍のユダヤ人、メンデルソンと知り合い、再婚をして子供と母親をスイスに呼び寄せています。しかし生活は苦しく、1937年に再び
家族を残したまま、ララはミュンヘンへと出て行きます。

 ここでルドルフ・ツィンゲという作曲家と知り合い、彼はハンス・ライプの詩集「港の小さなオルゴール」の「リリー・マルレーン」と言う詩にマーチ風の曲をつけてララに捧げます。ララも気に入ったのですが、すこしもヒットしませんでした。その後、ララはベルリンへ移り、1938年に若き作曲家ノルベルト・シュルツェと知り合いますが、彼もまた偶然『港の小さなオルゴール』の中の数編に曲をつけていて、その中にも「リリー・マルレーン」もありました。ララは聴衆の前で二つの曲を歌ってみて、メランコリックなシュルツェの曲を持ち歌にします。

 そして1939年2月、「リリー・マルレーン」のレコードの吹き込みが行われました。しかし結果は散々で、60枚とも600枚とも言われるほどにしか売れず、ララは自分の歌の限界を感じ、子供達をベルリンに呼んで、つつましやかで地味ではありますが、落ち着いた生活を始めます。

 ところが1941年初秋、突然、ララのもとに洪水のようなファンレターが送られて来ました。差出人はすべて前線の兵士たちで、北アフリカ戦線からのものが最も多かったのです。
 2年半も前に吹き込んで、とうに忘れ去られていた「リリー・マルレーン」が、何かの偶然でベオグラード放送局から電波に乗り、それが前線の兵士から熱狂的な歓迎と支持を受けたのです。

 本人の知らぬところで大ヒットした「リリー・マルレーン」によって、彼女の人生が大きく変わるこ
とになります。ナチスはララを前線の慰問に駆り出します。兵士達から熱烈な歓迎を受ける一方、軍はララに「大スター」にふさわしい待遇を与えました。しかし、彼女のその栄光は長くは続きませんでした。
 ゲッペルスは、ララがリリー・マルレーンを歌うことを禁止し、さらにエレクトローラ社に対して原盤を破棄するように命令したのです。

 1942年夏、ララは旅行先のイタリアで、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。スイスへの亡命を勧めるゲシュタポのワナにかかったのです。そして
「リリー・マルレーン」は放送禁止になり、レコードも発売禁止になりました。ゲシュタポの強引な追求に、ララは睡眠薬自殺を図りますが、親友に早期に発見されて一命をとりとめます。いずれにしろ最後には、銃殺されるだろうと覚悟を決めていたララでしたが、偶然にもBBCのラジオニュースが彼女の命を救います。
 BBC放送は、対独放送で「あなたがたの憧れの"リリー・マルレーン"を歌ったララ・アンデルセンは、収容所に入れられてそこで死んだ」と報道したのです。ナチス政府は、BBCの対独放送は「デマ放送である」と証明するために、ララの元気な姿を国民の前に立たせなければならなかったからです。ただし、芝居だけを許可し、歌うことと兵士に近づくことは厳重に禁止されました。

 1943年、長男ビョールンが15歳で招集されました。この年の11月、ベルリンの召集年齢は、さらに14歳に引き下げられ、ララは14歳になる次男ミヒャエルを連れて密かにベルリンを脱出します。行き着いた先は、ララの故郷からさらに北の、北海に浮かぶ「ランゲウォング島」でした。そこでララは、じっと戦争の終わるのを待ったのです。過酷な運命に翻弄されながら、ララは生き残ったのです。

 しかし、敗戦に打ちひしがれる戦後のドイツにはララの活動の場はほとんど無く、海外公演を行ったり、民謡歌手としてレコードを発売します。しかし、やがて新しい音楽の登場によって、音楽は若者のものとなり、古い歌謡曲は急速に人気が失われていったのです。
 そして1972年8月29日、ララは「一つの歌とひとつの人生」と言う副題のついた「自伝」を発表します。そして、そのキャンペーン中のウィーンで53年のその波乱の生涯を閉じました。

 そのとき、ドイツの新聞はこう報じています。

 「ララ・アンデルセンは死んだ。全ての兵士にとって「リリー・マルレーン」だった彼女は、今まで何千回も我々に別れを告げた。それは舞台上の挨拶であったり、別れの歌などであった。そして我々はいつでも、彼女と会うことが出来た。しかし彼女は今度こそ本当に別れを告げた。あの、『哀愁のラッパ』と言われた、彼女の声を我々は二度と聞くことが出来ない。
                         〜中略〜
 有名な歌の多くがそうであったように『リリー・マルレーン』も最初はどこでも見向かれなかった。もし戦いが無かったら、もしベオグラード放送局が出来なかったら、彼女は単なる有能なキャバレー芸人か、もと歌手だったと言う記録しか残さなかったかも知れない。しかし、彼女は有名になった。それは、ヒトラーもゲッペルスも、この歌を止められないほどのものだった。このブレーマーハーフェンの航海士の娘は、政治には何の興味も示さなかったが、たった一つの歌によって、最も悪い時代の記憶とつながりを持たれるようになった。それは間違いなく、『一つの歌とひとつの人生』であった。彼女は火葬され、彼女が愛した北海の『ランゲウォン島』に静かに眠っている。そしてもし、彼女の名前が忘れ去られることがあっても『リリー・マルレーン』が忘れられることは、決して無いだろう。」


ララは、自ら消えることを望み、その望みのとおり北海の「ランゲウォング島」に眠っているのです。


 自ら茨の道を切り開くマレーネの人生はドラマチックだが、それとは全く対照的と言って良いほど異なり、運命に翻弄され続けたとさえ言えるララの人生は、より以上に私にドラマチックな感動を与える。彼女の伝記映画を見たときには、下手なドラマを見ているより余程ドラマチックだった。
 

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