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知ったか その7  ● リリー・マルレーン ●

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             【マレーネ】    【ララ】    【リリー・マルレーン】

リリー・マルレーン 
・・・「Lili Marlen」、「Lilli Marlene」

 ララ・アンデルセンがドイツ語で、マレーネ・デートリッヒが英語で、そして兵士達がそれぞれの国の言葉で歌った、あの甘く切ない伝説のラヴソング。第二次大戦の欧州・アフリカ戦線において、敵味方の軍隊が共に同じ歌を違う言葉で愛唱し、毎日21時57分から「今夜は『兵士たちの唄』をお送りします」で始まる、ベオグラードのからの放送に耳を傾け、その間は戦闘が停止したと伝えられる、世にも稀有な歌である。
 原題は「Lili Marlen」であるが、ララは後になって「Lili Marleen」に変更。マレーネは自分の名前の綴り「Marlene」に変え、英語版ではそれがスタンダードになっている。
 
Lili Marlen
                  Hans Leip

Vor der Kaserne vor dem grossen Tor
Stand eine Laterne, und stebt noch davor,
So wolln wir uns da wiedersehn
Bei der Laterne wolln wir stehn,
Wie einst Lili Marlen.
 
Lilli Marlene
                Tommy Conner

Underneath the lantern by the barrack gate,
Darling I remember the way you used to wait;
'Twas there that you whispered tenderly,
That you lov'd me, you'd always be,
My Lilli of the lamplight,
My own Lilli Marlene.

 放送の翌日から、ベオグラードの放送局にリクエストが届きはじめました。日を追うにしたがって、「あの素晴らしい歌をもう一度」という、前戦の兵士からのはがきが増えて続けていきます。命をすり減らし、殺伐な毎日を送る兵士たちは、このメロディーに、平和な時代のはかないロマンスに思いをはせたのです。この世には砂漠と戦車と爆弾以外のものがあったのだと。そして、毎晩ベオグラードからの『リリー・マルレーン』に耳を傾け、今日も生き延びたという、命の実感を味わったのでしょう。
 ロンメル軍団とモンゴメリー麾下のイギリス第八軍との砂漠の戦いは、いつ果てることもなく続きました。捕虜になったドイツ軍兵士は、収容所の中でも『リリー・マルレーン』を歌い続けてました。やがて、監視のイギリス軍兵士も口ずさみ、次第に連合軍全体に広がっていったのです。敵味方もなく、平和やロマンスに対する思いは同じだったのでしょう。
 こうして、アフリカ戦線の両軍兵士の唄は、ヨーロッパ戦線全体に広がっっていきました。流行らなかったドイツの歌謡曲は、世界中の国の言葉で歌われるようになりました。ドイツからアメリカに亡命した女優マレーネ・ディートリッヒは、方々の連合軍兵士を慰問におとずれ、いつもこの『リリー・マルレーン』を歌ったのです」

 硝子窓に灯がともり
今日も街に夜がくる
何時もの酒場で陽気に騒いでる
リリーマルレーン
リリーマルレーン
 
男達に囲まれて
熱い胸を躍らせる
気儘な娘よ皆の憧れ
リリーマルレーン
リリーマルレーン
 
御前の赤い唇に
男達は夢を見た
夜明けが来るまで全てを忘れさせる
リリーマルレーン
リリーマルレーン
 
硝子窓に日が昇り
男達は戦に出る
酒場の片隅一人で眠ってる
リリーマルレーン
リリーマルレーン
 
月日は過ぎ人は去り
御前を愛した男達は
戦場の片隅静かに眠ってる
リリーマルレーン
 戦場の片隅静かに眠ってる
ンンン・・・ 
 
「お前の赤い唇に 男達は夢を見た。」
恋人のいない男はお前を恋人にする
夢を見た。恋人のいる男は恋人と無事
に再会する夢を見た。

H.Leip, /加藤登紀子訳詩

 第一次大戦に従軍した経験を持つハンス・ライプが書いた詩集「港の小さなオルゴール」の中に「リリー・マルレーン」はあった。何人かの作曲家がそれに曲をつけた。その中のひとつが1936年にノルベルト・シュルツェが作曲したものであり、やがて、ベルリンのキャバレーで歌っていた歌手ララ・
アンデルセンが1939年にレコードを出す。これが私達の知る『リリー・マルレーン』です。

 歌そのものはシンプルである。恋人を遠くに残し、今戦場にいる兵士。目の前には死の恐怖があり、愛する人は遥か遠い。兵士は今宵も、彼女との初めての出会いの頃に思いを馳せる。兵舎の門の前に灯っていたランタンの明かりの下。彼女は伸び上がって、彼の唇を求める。二人の影は溶け合い、闇に消えてゆく。あの時の様にまた逢おう。・・・しかし、もう逢うことはない。そして自分の命さえも・・・。

 最初はまったく売れなかった。「センチメンタルすぎる。」、「ばかばかしい」と酷評されたのだった。
 しかし、運命の転機は1941年の春、ドイツ軍がユーゴスラビアを占領した時に訪れる。ドイツ軍が首都ベオグラードに将兵向けの放送局(Soldatensender Belgrad)を設立し、ロンメル将軍旗下の北アフリカ方面軍向けに慰安放送を開始した。軍歌や、戦意を高揚するための放送であった。
 そのベオグラード放送局から毎晩21時57分になると流れる曲に、前線のドイツ兵たちはこぞって耳を傾けるようになった。『リリー・マルレーン』である。
 ベオグラード放送が、この曲を放送するようになった経緯には、いくつかの説ある。
 
 クルト・リースの『レコードの文化史』によると、2年半も前に吹き込んだ売れないララのレコードは、ベルリンのライプツィヒ街にあるエレクトローラ・レコードの販売店に山積みとなっていた。ここにたまたま偶然ですが、軍の前線慰問担当将校が訪れ、ポンと大金を置いて店員マックス・イッテンバッハに勝手にレコード200枚を選ばせた。店員マックス・イッテンバッハは売れ残っていた「リリー・マルレーン」を2枚忍び込ませた。このときに納入された「リリー・マルレーン」2枚のうちの1枚が、ベグラード放送局に持ち込まれることになり、電波に乗ることになった。

 また、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』によると、ナチが戦争を始めてしばらくたった頃、第二装甲中隊のある曹長が「リリー・マルレーン」を愛好していた、あるとき仲間達に聞かせたところ、すぐに気に入り、中隊に受け入れられた。やがて動員令が下り、この曹長は少尉となってベオグラード放送局に転属したが、中隊はアフリカ戦線へと向かった。少尉はもとの中隊の仲間へのプレゼントとして、「リリー・マルレーン」をかけた。これがアフリカ戦線で戦う兵士に受け入れられ、リクエストが殺到した。この少尉は、毎晩の様に21時57分になると、この歌をかけるようになった。

 いずれにせよ、この曲はロンメル将軍の名で知られる北アフリカ戦線のドイツ・アフリカ軍団の間に瞬く間に流行りだし、程なく西部戦線で、東部戦線で、ノルウェーで、果てはUボートの艦内でさえも多くのドイツ兵が、毎晩のようにベオグラード放送にダイヤルを合わせるのだった。
 やがて枢軸軍としてドイツ兵と共に戦うイタリア兵の間にも愛唱されるようになる。さらに、ロンメル将軍と対峙するイギリス軍兵士の間にもこの曲が広まり始め、イギリス司令部はそれを歌ったりしないようにと命じたが、彼等もまた夜のベオグラード放送を心待ちにするようになった。後から北アフリカ戦線に参戦してきたアメリカ軍の間にも広がり、それぞれが勝手に歌詞をつけた、自分達の『リリー・マルレーン』が連合国兵士の間にも広まった。
 その後、英米のレコード会社の関係者もこれに着目して、英語版の歌詞をつけた自分たちの『リリー・マルレーン』を世に送り出した。
 大女優として知られながら、自ら志願して前線の慰問に挺身し、兵士たちの心の友ともなっていたマレーネ・ディートリッヒもまた、この歌に自分自身で英語の歌詞をつけ、自らの名前の綴りを用いて「持ち歌」とした。
 他にも、フランス語版やイタリア語版など、数多くの『リリー・マルレーン』が生み出され、長く愛されている。もちろん、日本でも同様にである。 

 このシンプルな歌が、敵味方を問わず「第二次大戦に従軍した兵士達に最も愛された曲である」という事実こそが、戦争の真実の姿を最も的確に表していると言える。ささやかな幸せ、何でもない日常の日々を後に残して死地へ向かわなければならないと言う状況、そしてそれが生きて二度と帰らないことになってしまうという状況、それが戦争なのである。リリー・マルレーンという女性は、そんな兵士達が求めていた失われた日々を、束の間見せてくれる存在だったのであろう。

 この曲をアフリカ戦線の独・英両軍に送り届けたベオグラードの街は、つい先年までNATO軍の空爆の下にあった。ユーゴスラビアの戦争は終わったけれど、今年は米国に対する同時テロ事件とそれに続くアフガン紛争、パレスチナの自爆テロとイスラエル争いの激化、チェチェン、ソマリア、イラクなど、世界各地で紛争の火種は依然無数に存在する。
 それぞれの「リリー・マルレーン」を想いながら、戦火の中に生きる人々は、現在も無数にいるのである。
ちなみに私の生まれた年の春、カリスマ・チトーはユーゴスラビアの大統領に就任している。


          【マレーネ】    【ララ】    【リリー・マルレーン】
 
追記 ’02.10.14 朝日新聞「天声人語」
 今日、ノルベルト・シュルツ氏がミュンヘン近郊で死去したと報じられた。91才だったそうだ。
氏は1911年、ドイツ・ブラウンシュワイクで生まれ、ハイデルベルクで劇場の音楽監督に就任。
(後で書き写すつもりで、天声人語紛失)

 天声人語には「詩がシュルツ氏の目にとまったのは38年」とあるが、これは36年の間違いであり
発表が38年と言うのが正しいと思う。また、マレーネにのみ触れ、ララに触れていないのは大変に
残念である。
 英タイムズ紙に「1曲で、それも1曲だけで思い出されるであろう作曲家の死・・・」とあるが、これは
ララの『一つの歌とひとつの人生』、あるいは、ララの死を報じるドイツの新聞の追悼記事とも通じるところがあり、感慨深い。
 

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